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幕末における科学思想 
  ―変革を準備したものとしての科学―

週刊491第五号(1970年8月9日〜8月15日)に寄稿
小波 淳(ペンネーム)

・・・・正徳元年(1711)越後村上・安房北条・周防。同二年加賀大聖寺。同四年武蔵小金井。享保二年伯看・因播・備後。同三年備後。同四年周防岩国。同五年紀伊。同十一年但馬生野・信濃上伊郡・越後東頸城。同十二年美作津山領。同十四年岩代伊達郡。同十七年伊予・出雲。同十八年飛騨高山・丹後加佐郡。江戸・伯耆の坪上山。同十九年伯耆・安芸・肥後。元丈三年磐城岩手・但馬朝来郡。同四年但馬・因幡・美作勝北郡。寛保二年伊予砥部・肥前東松浦。延享三年磐城。同四年羽前・伊予大州。寛延二年幡州姫路・岩代安積郡・佐渡・岩代金曲、岩代伊達郡桑折・甲斐。同三年讃岐九亀・伊予大州。宝暦元年土佐佐川。同三年備後福山領。同四年筑後久留米・伊予西条・美濃郡上郡・大和十市郡。宝暦五年陸中・羽後・出雲広瀬・和泉・・・・・。一揆続発。
 天明七年(1787)米価謄貴。一部問屋・株仲間、会所を解散する。同八年幕府、御用達町人に対し拝借金の返納を命ず。寛政一年旗本・御家人の負債を減免・貸金会所を設置・大阪米蔵の納宿を全廃。寛政二年旧里帰農令公布・米方御用達起る。寛政六年寛政元年施行の倹約令を十年延長。文化六年江戸の十組仲間の出金で三橋会所設立。同十年三橋会所経営の米立会所設立・・・・・
 元丈四年(1793)ロシアスパンベルグ探検隊三陸海岸・房州沿岸に出没、日本船と交易。正徳元年千島列島の第一島を経略。昭和五年エトロフ島をロシア領に編入。昭和八年ロシア人ベニョウスキーよりロシアの日本侵略計画伝えられる。天明三年工藤平助「赤蝦夷国説考」を著す。同七年林子兵「海国兵談」を著す。寛政四年林子兵、処士横議の罪で処罪さる。同四年ロシア使節のラスマン根室へ来航。同八年イギリス人ブロートン室蘭へ来航。同九年ロシア人エトロフト島に上陸。享和三年アメリカ船長崎来航、文化一年ロシア使節レザノフ長崎へ来航・・・・・
 幕末、それは無類の絶対を誇った封建権力が、打ち続く飢饉と重税に喘ぐ百姓の蜂起の波、富を蓄えて言った町人の抬頭、開国を迫る外敵の圧力、あるいは支配の権威の学を否定する事実志向の学問への情熱等によって、その根底から、間接に直接にゆるがされ、新しい時代への息づまる期待とともにその矛盾をさらけ出し、変革へなだれこんでいった。そのような時代であった。


 「天下を治むと云ふは失りなり。自然には乱も無く、治も無く唯直耕安食安衣あるのみ。不耕貧食して直耕者に救われながら、民を治め、衆生を救ふなど云ふは、履を冠して笹を?くの逆言大罪なり。」  
  マルクス、バクーニン出現の約一世紀半前、日本の歴史上、自然世の生活をその思想の根底に据え、強固な封建体制下、独自の共産制社会を打ち出した埋もれた一思想家がいた。安藤昌益。
 彼が生きた時代は元禄から宝暦にわたり、主だった数だけでも百にも及ぶ一揆、打毀しが続発していた。当時は、儒教思想によって自然が規範的、静観的に人間を規制する身分的秩序原理として把えられていたのに対し、彼の思想は身分制度のみならず、政治、経済構造、宗教、医学、本草、物理等のあらゆる分野にわたり、すべて自然に対する深い洞察から出発し、「豆性活真」(活きた自然の事実から、相対的に存在する萬有の性質=原理)に包括し、人間の真の生活を直耕直食としたのである。
 彼は子弟たちを北海道から九州に至るまで(松前、八戸、秋田、須賀川、江戸、伊勢、大坂、京都、長崎)散在させた。彼らは医者であったり、薬屋であったり、代官であったり、いわゆる陽忍であった。昌益を中心にした思想の実践は、当時の情況下でいかに危険なものであったかは推察できるであろう。彼らの行動が地方のさまざまな地点で打ち喘ぐ農民を中心とする下層民衆に一つ一つ確実に、生きる糧を生えつけた。そしてまた寄せては返す波の如く次第に高まりゆく一揆。打毀しを支えるには、おそらく名もない幾多の昌益が存在していたはずである。
 この時代はまた、幕臣、武士、浪人、医者、商、町人・・・・・さまざまな階層の人々が自らの知的欲求を貪欲に伸ばしつつあった。
 今日に続く明日が、今日と変わらぬ明日であること、それがあたりまえとして在った身分秩序体制下、商品流通形態、交通形態の変化に伴う経済構造の変化は現象的次元から確実に人々の日常生活に於ける意識構造へと波及していった。
 時は蘭学勃興期、江戸、京都、大阪、長崎を中心に諸科学実践の現実的基盤たる数多くの塾が形成されていった。その中心的存在に、杉田玄白の弟子大槻玄沢が起こした芝蘭堂があった。ここでは蘭学を通して、医学、天文学、薬学、物理、化学等諸科学知識の変換が行われ、京都、大阪付近からこの塾に席を置きその情熱に触れ、知識、実践方法を吸収し、自ら地方へ散って新たな運動の核としての塾を起す者も少なくなかった(小石元俊による京都の辻蘭堂、橋本宗吉による大阪の絲漢堂等々)。
 塾に於ける運動は、幕末時代状況が生む必然的帰結として、医学関係者のみならず、田村藍水、平賀源内らの物産家、クナシリエトロフ島を探検した近藤重蔵、林子兵、工藤平助、洋画家司馬江漠等多くの市井の人間をもその渦中に巻き込みながら幕藩体制批判、経済構造、政治機構にまでも上昇していった。
 そして、これまでの封建体制の諸矛盾をあばき出し、儒教支配による知識の独占をも打ち破り、諸階層、特に庶民の側の精神構造へと影響していった。
 飢饉で常に苦しむ農民は、その生命を保つために天候を予測し、天災に備える方策を必要とした。この必要は“農業全書”の著者、宮崎安貞、サツマイモの青木昆陽を生み、天丈、歴学、地理学を育てた。商品経済の発達につれ、量を知ることが数学、測量学を発展させ、全国実測図の伊能忠敬を、博物物産の学などを次々と生み出していくのである。経験をまとめあげていったこれらの自生的学問は次第に理論家への欲望を喚起し、未知への挑戦は全てをなげうってすすんでいく底知れぬ活力にあふれ、医学を中心に広範な展開を繰広げていくのである。

 

   宝暦四年二月七日、京都郊外の刑場の片隅で三八歳の男の首なし刑死体の解剖行われる。同八年長州萩、京都伏見、同九年萩で日本初の女体解剖、昭和七年京都、そして同八年三月四日千住小塚原で・・・・
  名古屋玄医、後藤昆山が唱えはじめ香川修徳、吉益東洞、山脇東洋などがその大成者とされる古医方の人々には、医学での実証精神を鼓吹し、その主義に徹して自らの経験に徹しない限りは、いかなる古来の権威をも認めないという科学精神の発芽はあった。古来からの五臓六附説に強い疑いをもっていた東洋は人体の正しい構造、機能を内部に及んで知ることによってはじめて病いは完治できると主張し、人体の内景を見ることを待ち望んでいた。彼の疑問は、カワオソの解剖によっても晴れることはなかった。刑死体の解剖は官の制するところであり、儒教が思想界を支配し、封建体制を支えていた当時、「受刑死体であろうと死体を解くことは、残忍極まりない行為であり、君子の道に反する許されざる悪行」であるとか、「死体の臓器をみても生体の病を治すには役に立たない」という激しい批難の中で東洋らは覚悟をきめ、公許を懇願し、京都所司代酒井忠用から許可を受けここに日本初の人体解剖は行われたのである。人体を知ることは東洋らにとって何にも増して必要なことであった。これに刺激され刑死体解剖の火の手が上がり後に解体新書を訳出した杉田玄白、前野良沢を決定的に動かすことになる。儒教思想は学問への欲求の前に東洋らを支配しきることは出来ず、また、権力も彼らの覚悟に裏打ちされた医学の前に公許を余儀なくされたのである。このことは、ごく小さな事ではあるが完全を誇っていた意識支配の網を微力であるが確実に破っていくことになるのである。
  備前岡山池田家の家来鈴木の総領旭山武士を捨て町医者となる。宝暦十二年平賀源内祿を辞す。昭和六年麻田剛立脱藩。弘化四年豊後日出藩元家老帆足万里脱藩上京、被支配者の肉体と精神に対し、極限にまで自らを絶対者としてつら抜こうとする封建体制下にあって、脱藩は忠誠を破るものとして自らが規制し、又、切腹を命じ、さらに悪事をした脱藩者には打首の重刑を課する厳しい掟があった。
  内部矛盾をかかえ、切腹をも覚悟し、また身分として安定していた武士を捨て、家を捨て、自らの理念にまっしぐらに突き進んでいった彼らを支えたものは息づまるような“変革”“究明”へのさまざまな期待であった。良識し、あるいは意識しなかったにしろ、彼らのこうした事実への志向が人間の主情的世界から肉体的構造へ、そしてさらに人間を包む物理的、空間的世界へと拡大するにつれて、彼らの行為は着実に伝統的儒教の呪縛から自らを解放し、新しい時代の意識構造をつくり上げていくことになったのであり、科学のもつ具体性、事実性、実利性そのものに対する驚きばかりの発見が封建体制の絶対性をゆるがせ、彼らの内部に権力がみだりに立ち入ることのできない領域をつくり出していったのである。

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