----山の中で夫婦二人きりでくらしていればこうなるよりほかないとおもわれるように、今日ついた ばかりの眼にもふたりの間が温かくすっきりと疎通していることがすぐわかった。(中略)そして高地の せいか、夫婦のどちらにも粘着するようなものはなく乾いてさぱさぱしているのも、わたしの眼には愉 しかった。息子は出征していて、いまはこの宿の並びに家をつくって自給しているといったことが、 その夜いろり端できいた夫婦の身上であった。この夫婦は忘れがたい印象を弱年のわたしにのこした。 いろり端には、ときどき鼠がちょろちょろ出てきて、うろうろ餌になるものをさがしている様子だったが、 驚いたことにわたしたちがいてもすこしも怖がらず、夫婦も追い払おうとしなかった。 〈こんな山の中ですから鼠も家族みたいなもので〉といいながら、丁度飼い猫にいうように奥さんがとき どき〈すこしあっちへいっておいで〉と鼠のほうへ声をかけ手で追うしぐさをする。 奥さんにしいて追い払うつもりがないので、鼠のほうも逃げる気はないらしい。どこかへ引っこんでは、 またちょろちょろあらわれるのだった。ああこの夫婦はいいな、この主人の声はすんでいていい声だ、 この奥さんは親しそうでいて粘りっけがなくていい。そういう夫婦もこんな山の中だからこそ在りうるの だな。おれたちはどうせ戦争で駄目だが、こういう夫婦に偶然であったことはおれにはどんなにこの世の 土産になるかもしれない。 わたしはしきりにそんなことばかりかんがいていた… --吉本隆明「自立の思想的根拠」−ひとつの死よりー この文章からおまえがなにを想うかわからないが、ごく平凡ないわゆる庶民ともいえる夫婦の関係に 対する一人の人間の感性が、そして共感が書かれてあることはわかると思う。 この風信を書いている今、ラジオのニュースは今日の事件(三島由紀夫の割腹自殺)を報じた。 一瞬嘔吐を覚えた。それが何によるのか今はわからないけれど引用した文章の著者と同じく、夫婦の 在り方に共感する自分と、三島という一人の著名な人間の死に嘔吐を覚える自分・・・・。 わたしにとっては明らかに(仮にその夫婦の死がわたしに報じられたとして)山の夫婦の在り方のほうが 重たいと感じられる。たしかに三島の死は〈詳しいことはわからないので何ともいえぬが) このようにも人は死ねるものかということで衝撃を覚える。しかしそれがわたしの「人が生きる」ということ に対する思想的次元にまでくい込むものではない。山の中の夫婦の在り方のほうがより基底部において わたしとつながっているように思えてならないのだ。
ページトップへ▲